遠藤周作文学館で「沈黙」を考える

その508


長崎市にある遠藤周作文学館に2月末に行きました。

3度目ですが、3月31日まで、映画公開記念特別展 「沈黙」 展 開催中とのことを知ったので。

私はキリスト教徒ではありませんが、20歳前から遠藤作品を読むことによって興味が湧きました。

一番好きな作品は、「沈黙」で、「イエスの生涯」、「死海のほとり」 共々、何度も読み直しています。

「深い河」 も何度か読み直していますが、これは評価できず、遠藤作品として認めたくありません。

その 「沈黙」 は、キリスト教の知識のない人には読めば読むほど難しく、誤解を受ける名作でしょう。


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海を見下ろす場所に立つ遠藤周作文学館。右側は喫茶店です。

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ここから先は写真不可。奥の青年は熱心に遠藤先生の沈黙の解説ビデオを見ていました。

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この写真は文学館よりも少し佐世保よりから撮影。もう少し待てば夕陽が見られたのですが。


展示、説明の中に、「沈黙」は、最初は、「日なたの匂い」 という題だったが、それではインパクトが弱いと

懸念した担当者の希望もあり、「沈黙」 という題になったと書いてありました。

この題や作品は、神の沈黙 を描いたと誤解された という説明も読みましたが当然でしょう。

ましてや、これを映画にすれば、伝言ゲームのように作品の真意が変わるのでは?と思います。

「沈黙」 という題に縛られて、この名作を映画監督の思惑や解釈でゆがめてほしくないのです。


以前の篠田正浩監督の沈黙も見ていませんが、スコセッシの沈黙もまったく見る気がしません。

スコセッシの「最後の誘惑」は2回見ましたが、彼が 「沈黙」 に独自の解釈を加えることは嫌ですね。

大体、サイレンスとつけた時点で私にはダメです。暴言ですが 「沈黙」という題も元に戻してほしいくらいで、

もう十分に売れて、評価もされ、知名度もあるので、生前に改題する気はなかったのか・・。


「私のイエス」 祥伝社 などにも書いていますが、どんなに真摯に祈っても、拷問で死んでいく、無辜の

善男善女が救われるものではない、奇跡ということを誤解している と、これはどの宗教にも通じます。

そのように宗教を理解すれば、だまされることも後悔することもないと思います。まして自爆テロなんて。

まとまらない話でしたが、遠藤先生は司馬先生と並ぶ私が一生読み続けたいと思う作家です。


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入門書としては阿刀田高のこの本も読みやすく深い内容の名著だと思います。