遠藤周作文学館で「沈黙」を考える
その508
3度目ですが、3月31日まで、映画公開記念特別展 「沈黙」 展 開催中とのことを知ったので。
私はキリスト教徒ではありませんが、20歳前から遠藤作品を読むことによって興味が湧きました。
「深い河」 も何度か読み直していますが、これは評価できず、遠藤作品として認めたくありません。
その 「沈黙」 は、キリスト教の知識のない人には読めば読むほど難しく、誤解を受ける名作でしょう。
ここから先は写真不可。奥の青年は熱心に遠藤先生の沈黙の解説ビデオを見ていました。
この写真は文学館よりも少し佐世保よりから撮影。もう少し待てば夕陽が見られたのですが。
展示、説明の中に、「沈黙」は、最初は、「日なたの匂い」 という題だったが、それではインパクトが弱いと
懸念した担当者の希望もあり、「沈黙」 という題になったと書いてありました。
この題や作品は、神の沈黙 を描いたと誤解された という説明も読みましたが当然でしょう。
ましてや、これを映画にすれば、伝言ゲームのように作品の真意が変わるのでは?と思います。
「沈黙」 という題に縛られて、この名作を映画監督の思惑や解釈でゆがめてほしくないのです。
以前の篠田正浩監督の沈黙も見ていませんが、スコセッシの沈黙もまったく見る気がしません。
スコセッシの「最後の誘惑」は2回見ましたが、彼が 「沈黙」 に独自の解釈を加えることは嫌ですね。
大体、サイレンスとつけた時点で私にはダメです。暴言ですが 「沈黙」という題も元に戻してほしいくらいで、
もう十分に売れて、評価もされ、知名度もあるので、生前に改題する気はなかったのか・・。
善男善女が救われるものではない、奇跡ということを誤解している と、これはどの宗教にも通じます。
そのように宗教を理解すれば、だまされることも後悔することもないと思います。まして自爆テロなんて。
まとまらない話でしたが、遠藤先生は司馬先生と並ぶ私が一生読み続けたいと思う作家です。