松山城と加藤嘉明

その281
 
 
 
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132mの小高い丘の上にある松山城。ロープウエイ(リフト)から降りて、さらに10分弱歩きます
 
 
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帰りはリフトの反対側を歩いて降りましたが、樹木に覆われて結構な散策コースです
 
 
 
松山城を見学しているときに、30歳くらいの女性二人組と、戦国時代や関が原の戦いの話で盛り上がりました。
 
そのときに松山城を築いた加藤嘉明は、関が原で戦ったのに20万石というのは加藤清正福島正則に比べ、
 
恩賞が少ない、おかしいのでは?と質問されました。 これはかなりレベルの高い疑問だと思います。
 
本を読んで、史跡を見たりしながら、このように自分で考えて疑問に思うことが楽しいのです。
 
 
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      己の力で20万石(後に43万石)の大大名に出世したことは大変な出世でしょう。
 
 
司馬遼太郎の関が原という小説などでもお馴染みですが、石田三成に敵対した七将はほぼ同年代です。
 
そして戦後は、約40万石や50万石にまで加増されていますが、嘉明だけは20万石なのです。
 
おおまかにいえば、清正 25万石→50万石 福島正則 20万石→50万石 黒田長政 18万石→52万石
 
池田輝政 15万石→52万石 また細川忠興 18万石→39万石 浅野幸長 22万石→37万石 で、
 
そして加藤嘉明は、10万石 → 20万石 です。
 
 
つまり、倍の恩賞は、細川や浅野と遜色はありません。 元々が10万石というのは、清正や正則に比べると
 
少ないかもしれませんが、この二人は豊臣秀吉の親戚で、また浅野幸長の父親の長政は、秀吉の合婿と
 
されています。つまり義兄弟です。 そして池田輝政の父は信長の乳母子の勝正、細川忠興の父も信長にも
 
仕えた幽斎、また黒田長政の父はご存知 官兵衛 です。 この三人は親の代からの大名なのです。 
 
なお、池田輝政は、家康の娘婿ということもあり、後に一族で90万石以上の繁栄ぶりです。
 
 
 
しかし嘉明は、己の力だけで彼らと肩を並べるようになったようです。 ですから余程の能力や周囲から
 
評価される人間であったと思います。 後に43万石の大名になりますが、大したものだと思います。
 
 
 
ところで、この松山城の下にある庭園はなかなか結構です。
 
和風の庭園と、現代的な西洋風庭園の組み合わせで、小高い東屋から見下ろすこともできます。
 
 
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      この日は運悪く(笑)、結婚の写真を2組撮影中でしたが、お勧めの庭園です
 
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     正面に見える丘の中腹から見た写真が上のものです。